城下町大垣に初夏の訪れを告げる360年余の伝統を誇る大垣まつり。
大垣まつりのやまの起源は、慶安元年(1648年)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両のやまを造って曳回したのが始まりといわれています。
延宝7年(1679年)、藩主戸田氏西(うじあき)公から、「神楽やま」「大黒やま」「恵比須やま」のいわゆる三両やまを賜り、それを機に10か町は、やまの飾りつけに趣向を凝らしていきました。しかし、濃尾震災や先の大戦によって多くのやまを失い、修復や復元、購入したものを合わせて、現在では11両のやまが現存しています。平成24年の大垣まつりには、失ったままであった2両のやまが再建され、戦前の昭和17年以来、70年ぶりに全13両やまが勢揃いし、華麗な元禄絵巻を繰り広げます。
※「やま」の表記は車へんに山。
やま一覧
神楽やま
別名『御払やま』とも『市やま』とも言い、本町・中町・新町の三町内が年々交代で曳き、常に行列の先頭を行く。『大黒やま』、『恵比須やま』と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものである。
人形神楽としては、全国的にも珍しいもので、350年ほどの歴史を持つ貴重な文化財であり、踊りを舞う2体の人形は、巫女と山伏の2体からなっており、舞台の下から人が直接棒で操る大変珍しいものである。巫女は鈴を鳴らしながら、静かに祈祷や清めの舞いを行い、山伏が両手に熊笹を持ち、湯桶の湯の花をまき散らして、湯立ての清めを行う。この時湯の花をまき散らす紙ふぶきは、清めや病魔退散の意味があるとされている。
人形の巫女の名は昔、大垣の八幡神社に"市"と呼ばれる美しい巫女がいたことから"市"と呼ばれている。また、山伏は、お囃子の際、急テンポに変わると登場し、その調子がチャーチャーと聞こえることから山伏の人形はチャーチャーと呼ばれている。
相生やま
謡曲「高砂」を題材にした事から、別名『高砂やま』とも呼ばれ、平成8年に51年ぶりに復元されたものである。先の相生は昭和20年の戦災で消失したが、高さ約6メートル10センチ、縦横ともに他のやまより一回り大きく、屋形は押えた朱色の漆塗り、また欄干は螺鈿を施した黒漆塗りであった。復元されたやまも現在11両あるやまの中で一番大きなやまである。屋形人形には、尉と姥が置かれ、本やま人形は住吉明神、前やま人形は神主友成が置かれている。この4体のからくり人形は、郷土大垣のからくり人形作家後藤秀美氏の作である。
前やま、本やま、後やまには、高山の日展作家、飛騨一位一刀彫りの東勝廣氏の作十二支・手長・足長・昇降龍などの彫刻が施されている。
謡曲「高砂」にあわせて住吉明神が袖がえしや面かぶりのからくりを見せながら激しく舞います。対照的に神主友成は静かな動きをしながら中央まで進み瞬時に帆掛船に変わるからくりは圧巻である。
猩々やま
謡曲「猩々」から取った名である。やまは二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないと言われている。また見送りは郷土の画家和田能玉氏描く「代沢怪」と揖斐川町在住の書家窪田華堂氏の筆になる賛は、豪華な手刺繍で縫い挙げられている。
からくり芸は、二層のやま上に大床板(トイ)を突き出し先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み鯨飲すれば酔って紅顔になる。猩々はたちまち獅子に変り、大酒壺は割れて大輪の牡丹に花が咲き乱れれ、獅子はこれにたわむれ舞い狂う。
昭和20年7月戦災で惜しくも焼失した先代の猩々やまが平成13年3月、56年ぶりに見事再建され、以降大垣まつりに参加している。
榊やま
明治以前には朝鮮やまがあり、御所車様式のやまを中心に、朝鮮通信使を模した仮装行列で、本来は練り物であった。しかし、明治維新の神仏分離令などによって廃止され、代わって登場したのが『榊やま』である。
前水引は「群雀」(下絵:戸田氏貞夫人)が描かれ、見送りは、王仁・阿直岐の刺繍(下絵:武光一六、詩文:江馬元齢)である。
また、朝鮮やま遺品の昇龍が屋形後ろに飾られている。
屋形には榊と神鏡が飾られており、天鈿女命が榊と鈴を持って静かに神楽を舞います。天鈿女命が白木台の上の鈴と榊を手に握るところが、このからくり人形の見どころである。
恵比須やま
延宝7年(1679年)戸田氏西公が恵比須神を祭るにあたって、摂津の広田神社に祭られている西宮の蛭子神に人を派遣して祈願したと言われている。戸田家は深く恵比須神を崇敬しており、西宮の恵比須神社の縁起によると、元和以来、尼崎城主戸田氏鉄より毎年米三十石を寄進されたとある。
恵比須大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げて塗り師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたと言われている。本楽の夜、夜の行事が全て終了後、各町のやまが曳きわかれた後、その年の恵比須やま責任町から、次の責任町に恵比須神のお頭を渡す儀式(お頭渡し)が古来と同じ手順で今も行われている。
また、祭礼に雨が降ると、恵比須さまが鼻を垂らすという伝説も残っている。
このやまは、船町・伝馬町・岐阜町・宮町の四町内が年々交代で曳いている。
松竹やま
琵琶湖の景勝地・竹生島の弁財天を首座に配する事で、別名『弁天やま』と呼ばれている。仏教での弁財天は、音楽・弁舌・財富・知恵延寿を司る女神。日本では七福神の一人で親しまれ。屋形の奥に祀る。その前に童女を配し、からくりによって舞う中に人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき祭り客にふるまう。
また、やまの前部は踊り舞台となって子供舞踊が演じられ、からくりと舞踊を併用した唯一のやまである。水引は「大山水引」と呼ばれ狩野派の中国的な絵模様に「瀬田夕照」など近江八景の詩を飾る綴錦。見送りお絵柄は中国の故事とされる「石公より兵法書巻(免許皆伝の絵巻)を張良に授ける図」で、精妙な刺繍で描かれている。
菅原やま
別名『天神やま』とも呼ばれている。濃尾震災で焼失したが、大正3年(1914年)に再建され、2年後に曳やまをし、8年後には漆塗を行い、現在に至っている。やまのからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用であるが、種板を使わないのが特徴で、約2メートル離れた下から、操作する人が筆柱を動かし一筆で書き上げるのが大変な熟練を要する。
書き終えると、やまの神主に報告をし、額持ち人形が額から紙を落として一連のからくりが終了する。
このやまの見送りは、大橋翠石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれる水墨画の「竜」が描かれている。
大黒やま
『神楽やま』『恵比須やま』と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものである。やまの丈夫には、米俵2俵を置き、その上には右手に小槌を持ち、左肩に稲袋をにない、ふくよかな笑みをたたえ、七福神の一つと教えられている福の神大黒天を乗せており、運慶の作といわれている。
水引は、戸田家の家紋である九曜の紋が施されており、魚屋町・竹島町・俵町が年々交代で曳いている。
昔は、このやまの当番町にあたった町内では、大黒天の使獣である鼠は殺さない習慣があった。
鯰やま
別名『道外坊やま』と呼ばれており、1648年に造られた。からくり芸は、赤い頭巾を冠り、金色の瓢箪(ひょうたん)を振りかざした老人が、鐘と太鼓の賑やかなお囃子につられて、水上で踊り狂う大鯰を押えようとするもので、誠に面白い。
これは、室町時代に高僧が「泥水の中にすむヌルヌルしたウロコのない鯰を底の丸い瓢箪(ひょうたん)で押える事ができるか」と問い、この問題を画僧の如拙が絵に描いた国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」で、これをもとにして造られたのが、鯰やまの鯰押さえである。郷土玩具に、鯰やまの芸を模した「鯰押え」がある。
水引幕の正面は、「有慮十二証」(古代天子の衣装模様)・側面に「阿吽の双竜」を描き、屋形には瓢鮎図(ひょうねんず)と禅間の彫刻を見る。
愛宕やま
起源は、正保5年(1648年)『吉野やま』と言う練り物であったが、延宝5年(1679年)愛宕大権現の御神体の小祠を載せ祭りに曳き回したのが始まりで、その後、宝暦年間に修復、改造の折り、やまより小祠を降ろし現在の愛宕やまの原形が出来た。やまの上段屋形内には、祭神、神功皇后を祀り軍扇、太刀を持ち男装でお座りにない、神話で、神功皇后が身重ながら新羅に遠征され帰国後、応神天皇を無事出産した話が有名で安産の神としても信仰されている。中段左に武内宿祢(たけうちのすくね)、右に狂言師、下段には采を振り穢れを払って先導する、麾振り(きぶり)人形を置く、謡曲「弓八幡」を題材にして、武内宿祢(たけうちのすくね)が高良の神に変身し神舞を舞う、狂言師(神官)が箱を開けると二羽の鳩が現れ、豆を拾う。作者は玉屋庄兵衛で鳩のからくりは全国でも珍しいと言われる。
玉の井やま玉の井やま
初めは『石曳きやま』で、大垣城の石垣を積む折、赤坂の金生山(きんしょうざん)で採取した石を運んだ車を改造してやまにしたところからこう呼ばれた。その後、江戸中期に、『石曳きやま』に変わって登場したのが、一層中檀の前やまに天女の人形を置き、二層のやまの屋形に「彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)」の人形を安置し、その前で赤面竜神人形が舞をした、からくりやまであった。しかし、文化12年に大洪水で大破し、後に改造され、やま上の屋形に洪水で唯一残った「彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)※玉の井さん」を配し前方に舞台を飾る芸やまに変った。戦前までは、町内の有志により語られる義太夫と、浄瑠璃で子供歌舞伎が演じられていた。現在は、少年少女の舞踊を披露する芸やまに変り、観客の目を楽しませてくれている。
布袋やま布袋やま
中町の布袋やまは、古来謡曲「加茂」にちなんだやまとして、とりわけ謡の声が良く、また、やまの設備も立派です。唐子人形が右手に扇を持って舞いつつ、やま上に向かって右先の隅にある台に近づきます。それから、台上に左手をつき、片手で逆立ちをし、右手の扇を開いて転舞する仕掛けです。離れからくりは、この布袋やまだけです。明治24年に濃尾大震災で焼失しましたが、その後、明治35年に再建されました。昭和20年の空襲により再び焼失しましたが、平成24年に再建されました。
浦嶋やま浦嶋やま
屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・竜神・亀、前やまは唐子を配置し、謡曲は竜神に関するものを使い、 竜神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れる仕組みです。勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。屋形は竜宮上をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他のやまに類似しないのが浦嶋やまの特徴です。さらに後やまには登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年再建されました。